仁サロン
「根性」「勘」「経験」
3K指導者の生き様第2話
全5話にわたり、吉川覚さん(清水中バスケットボール部監督)の指導者としての生き様を、その教子で、中学時代に共に九州制覇を果たした、仁サロン主催の古田仁と、サロンメンバーでもあり「スポーツで鹿児島を盛り上げよう!」をキャッチフレーズに独自の視点で情報を発信する政純一郎編集長による三者の対談動画をお届けします。
夏の市大会ではラ・サールに4-94だった。ラ・サールの三好邦夫監督は小学時代の1つ上の先輩。「吉川君、僕は全力でいくからね」と素人チームを相手にも手を抜かず全力でぶつかってきた。「どっちが勝っても九州で優勝するチームを作ろうね」。こののちも会場で会うたびに声を掛けてくれたことが、大きなモチベーションになった。 「3年後に県で優勝する」夢を掲げ「理性なき情熱」で子供たちを妥協なく鍛える一方で、研鑽にも励んだ。新チームがスタートする頃に全員を連れて鹿児島女高の練習を見学に行った。当時の鹿女子は川田隆一監督の下、鹿児島国体準優勝など全国での実績もある輝かしい名門校だった。 ラ・サールの三好監督や、鹿児島高の中村俊次監督ら同世代の5人で「桜粋会」という川田監督のバスケットを学ぶ会を作った。試合中の川田監督の声を録音し、得点、状況に応じてどんな声掛けを選手にしているのか、学んだことを思い出す。「鹿女子の追っかけをした」というほど試合を見て川田監督から勝てる指導者のイロハを学び、男子中学生に県でトップにいる女子高校生の練習を見せて、学ばせた。自分のプレーを客観的に分からせるために、当時はまだ「給料の7カ月分」の値段がしたビデオカメラを買って撮影したこともある。 そういった努力と工夫の成果もあって、創部時1年生だったチームが2年生の新チームになったときの鹿児島市大会で3位、川内籠球祭で2位、県新人戦で優勝。「3年後に県で優勝」が現実になった。 一度結果を出してから後、勝てなくなった時期に意識革命があった。若さと情熱に任せ、子供たちを引っ張って「勝たせる」ことに使命感を持っていたが、いつの間にか「1から10までベンチが指示してやらされるバスケットになっていないか?」と自らのやり方を省みた。 鹿女子の川田監督に教えを請い、東京であったコーチクリニックや、その頃から強くなり始めた秋田・能代工のバスケットなどを学ぶうちに、「選手が自分で判断して主体的に動く」バスケットにたどりついた。パス&ランの「反応バスケット」と称されるスタイルの原型が河頭中で最後に見たチームだった。
文:政 純一郎
仁サロン主宰。サロンメンバーを中心に「夢実現」へ導き、メンバーの事業に対しても、新たな取組み、コラボ、橋渡しを行う。
今回の登場する吉川先生は、中学校バスケット部の頃の顧問。その際に九州チャンピオンになる。
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1945年9月1日生まれ。南さつま市加世田出身。鴨池中、鹿児島玉龍高、鹿児島大卒。中学体育教員として東郷中、河頭中、伊敷中を経て行政へ。重富中、緑丘中で校長。
仁サロンメンバー。NPO法人スポーツかごしま新聞社運営「鹿児島のインターネットスポーツ新聞」編集長。「鹿児島のスポーツを盛り上げよう!」「スポーツで鹿児島を盛り上げよう!」をキャッチフレーズに鹿児島のスポーツ界を独自の視点で発信。
3K指導者の生き様 第1話
今回から全5話にわたり、吉川覚さん(清水中バスケットボール部監督)の指導者としての生き様を、その教子で、中学時代に共に九州制覇を果たした、仁サロン主催の古田仁と、サロンメンバーでもあり「スポーツで鹿児島を盛り上げよう!」をキャッチフレーズに独自の視点で情報を発信する政純一郎編集長による三者の対談動画をお届けします。
試合中、タイムアウトをとる。 「このプレーは君が頑張ってやるんだよ!」 集まってきた孫のような年代の中学生を相手に語る口調には力強さと説得力を感じる。バスケット素人の人間が聞いていても、心の底から燃えて何か「やってやるぞ!」という気持ちになる。 鹿児島の中学バスケットボールの歴史の中で2020年現在、男子で九州を制したことがあるのは1981年夏の伊敷中のみで、その時の監督だった。「僕は根性、勘、経験の3K指導者。一番良くない指導者なんですよ」と自嘲気味に語る。 「ただの勘じゃない。客観的な経験の積み上げの中からふっと閃く勘を持っていた先生でした」と伊敷中九州優勝メンバーの1人、古田仁さんは言う。「子供たちを優勝させてあげたい!」という燃えるようなど根性が根底にあり、客観的な「経験」を丹念に積み上げながら、閃く勘も大事にする。本物の3K指導者の生き様が感じられた。 【 指導者になりたい!】 少年時代は「身体は小さかったけどとにかく元気があった」。64年の東京五輪に向けて日本の体操が華やかだった頃で「本当は体操をやりたかった」が鴨池中には体操部がなかった。中2の夏休みの後、「とにかく元気だった」のを買われて誘われたのがバスケットを始めたきっかけだった。 プレーヤーとしての実績はほとんどないが「とにかくバスケットの指導者になりたくてたまらなかった」。学生時代、大学を卒業したての先輩教員が中学や高校に赴任し「3年後に優勝させる!」と宣言して、実際その通りに優勝させた姿を見ていて、自分もそんな指導者になりたいという憧れを抱いた。中学、高校で、ちゃんとした指導者に教わったことがなかったので選手よりも指導者になりたい気持ちの方をより強く持つようになった。 2校目、29歳で赴任した河頭中はバスケット部がなかった。最初は剣道部の副顧問をしていたが、連休中にあった大会に引率で生徒を連れていくと、まだ会場について間もないのに、周りにいる身体の大きな他校の選手たちをみただけで戦意喪失した部員たちをみてショックを受けた。 当時の河頭中はどの部も弱小で、初戦の対戦が河頭に決まると相手が喜ぶような学校だった。その頃、部活動にそもそも入っていない生徒が全体の約6割いた。子供たちや学校に染みついた「負け犬根性」を何とかしたいと思い、連休明けに「バスケット部を作らせてください!」と直訴した。最初は多くの同僚に反対されたが、「若い先生が情熱をもってやろうというのだから、やらせてあげましょうよ」と言ってくれたベテランの先輩教師のおかげで創部にこぎつけることができた。 【3年後に県大会優勝】 「3年後には県で優勝しようね!」 最初に声を掛けて入ってくれた1年生男子4人の家に家庭訪問してそんな言葉をかけた。根拠は何もない。ただ自分の強い夢や想いがあるだけだ。創部1カ月にも満たない時期に初めて出場した県選手権では東串良中に1-113で負けた。入ったのはフリースローの1本だけ。ドラマ「スクールウォーズ」を再現したかのような惨敗だった・・・( 続く )
くめ
中学時代私は、バスケットをしており出演されているお二方には非常にお世話になりました。動画第1弾は非常に楽しく拝見させていただきました。続編を心待ちにしております!
政純一郎
予想以上に素晴らしい出来に感動です!